水曜日, 3月 16, 2005

マーク・トゥエイン

マーク・トゥエインという方をご存知でしょうか?
その方がこんな事を言ってます。

愛や憎しみ、慈悲、復讐、人間らしさ、寛大さ、許し。。。
これらは、あるひとつの大きな衝動のさまざまな結果なのだ。
すなわち、自己肯定を確かなものにしたいという欲求だ。

4 件のコメント:

Mari さんのコメント...

最後の許し’が簡単に出来れば、救われるのだと解かっていながら、出来ないのは やはり人間だからかな~

最近、ようやく納得しはじめたのは、
(真実の愛=相手を許せる心)ではないかと。。。

詩にも書いてあるけど、真実の愛を探し求めていた私でした。

Hamel さんのコメント...

愛"...これが人間としての永遠のテーマかどうかはさておきまして、

私的に「真実の愛」とは「無償の精神・与えるだけの愛」なのではないかと考えます。したがって「あれをやってあがたから、こうしてもらいたい」とはなりません。

・・
愛は死よりも、死の恐怖よりも強い。
愛、ただこれによってのみ人生は与えれられ、進歩を続けるのだ。byツルゲーネフ

なんと一言も言わずに行なってしまったのか。ああ、真実の愛とはそういうものなのだ。
真実は言葉で飾るより以上に実行を持っているのだ。byシェークスピア

何を一番愛しているかは、失ったときに分かる。by西洋の俚諺

Mari さんのコメント...
このコメントはブログの管理者によって削除されました。
Mari さんのコメント...

↑ゴメン、日本語ミスばっかりで書き損じたので消して改めて書いてます。

>私的に「真実の愛」とは「無償の精神・与えるだけの愛」なのではないかと考えます。
↑これは私も同感で以前から そう思ってました。
男女の愛、親子の愛、兄弟愛、友情愛と
愛にはいろいろあるけれど、、、、、
極端な例として、自分の愛すべき人が殺害されたとして、そのやった相手を許せるかどうかの問題です。
普通の人間なら出来るわけありません。
死ぬまで憎しみと復讐心で人生を終えるかもしれませんし、死後もまた続くかもしれません。
もちろんのこと、やった相手は恨まれた相手の強い想念により、直接の打撃を受けなくとも何かしらの悪い影響を受けることになるでしょうし、恨んだ者は、それ以上にエネルギーを使うことになるので、さらなる悪影響と悪魔に心を売ることになるでしょう。
上で述べてた「許し」は相手も救われる代わりに、自分もまた救われる、それも愛かと。

聖書の言葉で「汝を愛せ、汝の敵をも愛せ」だったかな? 私はクリスチャンでも何でもないので、よくわからないのですが、
この意味の真の愛は「許し」だと思い始めたのです。そして目にするもの全てを愛しなさい”とも感じます。

話は長くなりましたが、最近、悲惨な事件を見ていて、いつも思うことは、被害者側の辛い気持ちも十分に感じるのだけれども、加害者側の家族の心情や痛みが伝わってくるのです。私の中で何か変化してるというか、単に変なのかもしれませんね。
ほとんど人は「あたりまえだろ!悪いことしたのだから」と加害者側に憎心もちます。加害者本人はあたりまえですが、周りの家族、例えば、その母親は辛いと言うものではありませんよね、その母親が過ちを犯した自分の子を見捨てずに受け入れることが出来るかどうかが問題なのですが、これもまた「許し」の愛を意味するものではないかと感じるのです。

まだいろいろ書きたいことはあったのですが、ほんと長くなってすみません。